あなたのインド知識はどのくらい?
4,000年にもおよぶインドの歴史は、支配者の奉じた宗教や支配民族の交代といった政治的・宗教的な区分をすると、大きく次の4つの時代に分けられます。
※インドの代表的な遺跡や建造物は、インドの世界遺産の項目で詳しく紹介しています。
インド亜大陸に出現した最初の文明は、世界の四大文明のひとつとして知られるインダス文明です。紀元前2300〜1700年頃にかけて栄え、モエンジョ・ダーロ(モヘンジョ・ダロ)やハラッパーなどが代表的な遺跡で、これらの発掘調査からインダス文明は文字をもち、高度な都市文明を築いていたことがわかっていますが、どの民族がこの文明を担ったのかなど不明な点も多く、今後の研究結果が待たれます。
文献で知ることのできるインド亜大陸の歴史は、中央アジアで遊牧生活を行っていたアーリヤ人の来住をもって始まるといわれています。彼らは先住農耕民と交わり、紀元前1000年頃にはガンジス川流域の肥沃な大地に根づいたと考えられています。アーリヤ人たちの神々への賛歌と祭式をまとめたものが『リグ・ヴェーダ』をはじめとするバラモン教の聖典です。バラモンは祭祀を司る者たちを指し、その思想はのちにヒンドゥー教の核となり、またその権威への反動がゴータマ・シッダールタ(釈迦)の仏教やマハーヴィーラ(ヴァルダマーナ)のジャイナ教といった新思想を生むきっかけとなるなど、インドの社会・文化のすみずみにまで影響を及ぼしています。
紀元前7〜6世紀頃になるとガンジス川流域に都市が発達し、各地に王国が成立して互いに争うようになっていきました。紀元前4世紀後半におこったマガダ国のマウリヤ朝は、初代のチャンドラグプタ王から紀元前3世紀の第3代アショーカ王の時代にかけて北インドを統一し、デカン高原から南インドまで版図を拡げたといわれています。しかしマウリヤ朝はアショーカ王以降急速に衰退し、紀元前2世紀の後半に滅亡。中心地であった北インドはその後長らく政治的に混乱した時代を迎えます。一方で、ヒンドゥー教や仏教などの宗教やその彫刻など、文化面においては発展がみられた時代でもありました。
1世紀頃、西北インドにイラン系のクシャーナ朝(クシャーン朝とも)が成立、中国・ローマ間の東西貿易の中継貿易で繁栄します。またこの時代、南インドに北インドのバラモン文化や仏教などが伝わるとともに、南インドに独自の文化が発展し、各地に王国ができました。サータヴァーハナ朝などの南インドの王朝は、ローマとのインド洋海上貿易でも知られています。
この時期までの重要な出来事のひとつがヒンドゥー教の成立です。バラモン教の神々にかわり、シヴァ、ヴィシュヌ、クリシュナといった神々への信仰が広まり、『マハーバーラタ』『ラーマーヤナ』のヒンドゥー二大叙事詩でもこれらの神々が讃えられました。また、ヒンドゥー教徒の規範としてまとめられたのが『マヌ法典』で、この法典はのちになって成立するカースト制度にも影響を及ぼしました。
320年頃、政治的混乱のつづいていた北インドに強大な統一王朝がたちます。グプタ朝です。4世紀後半から5世紀前半にかけて最盛期を迎え、この王朝のもとでヒンドゥー教がさらに発展しました。またグプタ朝の公用語であったサンスクリット語による文学が栄え、『シャクンタラー姫』などインド古典文学の名作が生み出されたのもこの時代です。しかし5世紀半ば頃から中央アジアの民族エフタルの侵入を受けて衰退しました。
7世紀初めに再び北インドに統一王朝ヴァルダナ朝がおこります。唐僧・玄奘(げんじょう)がアジア大陸を旅し、北インドを訪れたのはこの時期で、当時仏教の一大学問所であったナーランダーの地に5年間滞在しました。これらの彼の旅を記録した『大唐西域記』は、三蔵法師が天竺(インド)を目指して旅する『西遊記』のベースとなった書物です。
仏教を保護し、玄奘がその繁栄を讃えたヴァルダナ朝は、初代のハルシャ王わずか一代で滅び、北インドは再び群雄が割拠する混乱の数世紀を迎えます。この時期にはラージプートと呼ばれる戦士たちが、その軍事力により西北インドから北インドにかけて各地を支配し、それぞれの王国をたてて相互に対立しましたが、その支配体制の確立の過程で各種職業の分化が進み、同じ職業に従事する人々がジャーティ(「生まれ」の意)を同じにする集団ごとに結束を固めました。これがのちにカーストと呼ばれる社会集団の形成を促しました。
10世紀後半〜12世紀後半にかけ、中央アジアで勢力をもったトルコ系のムスリム(イスラーム教徒)の王朝が西北インドに侵入し、ラージプート諸王国を打ち破って北インドへ勢力を拡げました。その勢力のひとり、クトゥブッディーン・アイバクが1206年にインドではじめてのムスリムの王朝を建設。アイバクをはじめ君主のなかに軍人奴隷出身者が多かったことから、この王朝は奴隷王朝とも呼ばれますが、以後3世紀あまりにわたってつづいた、デリーを都としたムスリムの王朝をまとめてデリー・スルターン朝ともいいます。
ムスリム王権のもと、バラモンや在来のヒンドゥーの領主層は自分たちと同じジャーティ(「生まれ」の意)の集団の結束を強めて王権と結びつき、旧来の支配層としての地位を維持しました。
14世紀になると、北インドのムスリム勢力は南インドへ支配の手を伸ばします。それ以前の南インドは、10〜11世紀に東南アジアとの海上貿易で栄えたチョーラ朝など、諸王朝の支配下で独自の繁栄を築いていましたが、ムスリムの侵入後にヴィジャヤナガル王国を中心とするヒンドゥー教徒の大帝国が成立し、以後200年にわたって繁栄しました。
デリー・スルターン朝を倒し、新たにムガール朝を創建したのが、中央アジアのティムール朝の王子として生まれたバーブルです。彼は軍人・政治家として傑出していただけでなくすぐれた文人でもあり、その回想録『バーブル・ナーマ』は、トルコ散文学史上最高傑作ともいわれます。
第3代皇帝アクバルの時代にムガール朝の支配は確立され、北インドを中心とするムガール帝国が築かれます。17世紀後半、第5代皇帝シャー・ジャハーンの時代に帝国は最盛期を迎え、その支配領域をデカン高原方面まで拡げました。デリーには王の居城としてデリー城が建設され、また王が亡き妻の霊廟としてアーグラーに建設したのが、有名なタージ・マハルです。産業面では綿織物やインディゴ(インド藍)などの手工業が発展し、ムガール帝国は繁栄を謳歌します。
しかし第6代皇帝アウラングゼーブの時代になると、デカン方面の領主層が成長してマラーター同盟を結び、ムガール支配に反発。北インドでも力をつけた地主層が帝国の農村支配に抵抗するようになり、ムガール帝国の繁栄にかげりが見えはじめます。
15世紀末、ポルトガル人ヴァスコ・ダ・ガマがインド半島南西部のカリカットに到着して以来、ポルトガル商人は16世紀を通じてインドと貿易を行っていましたが、17世紀に入るとイギリスやオランダ、フランスなどのヨーロッパ各国がこぞって東インド会社を設立し、インド各地に拠点を築き、本格的なインド洋貿易を展開します。
こうした地方の経済発展とはうらはらに、内部の混乱を抱えるムガール帝国の中央貴族は貧窮化し、18世紀はじめに第6代皇帝アウラングゼーブが死ぬと、帝国は衰退へと向かいます。各地の君主が独立して力を蓄え、マラーターやラージプート諸王国などの勢力が対立し、再び分裂状態となったインドに支配の手を伸ばしたのがイギリスでした。
東インド会社を通じてインドとの貿易を行っていたイギリスは、遅れて進出してきたフランス勢力と対立するようになりますが、1757年のプラッシーの戦いでインドの地方勢力と結びついたフランス軍を破り、インド全域の植民地支配に乗り出します。
18世紀半ばから19世紀前半にかけ、イギリスはインド支配を次第に拡げ、新たな地税制度を導入してインドから富を吸収しようとしました。また、すでに産業革命を果たしたイギリスから安価な綿製品がインドに大量に流入し、従来の綿織物手工業は壊滅的な打撃を受けます。さらにイギリスは、インドの現地労働力を安価に使ったプランテーション農業を拡大し、農産物の輸送のための鉄道建設がインドの税収によってまかなわれるなど、インド民衆の貧困化が進行しました。
高まるイギリス支配への不満が爆発したのが、1857年のシパーヒー(セポイ;東インド会社のインド人傭兵を指す)の乱に端を発する「インド大反乱」でした。インド北部の町メーラトからインド全土へと広まった反乱はやがて鎮圧されますが、これをきっかけにイギリスはムガール皇帝を廃し、東インド会社を解体してインド総督府を設置、インドの直接統治へと乗り出すことになります。こうして1877年にヴィクトリア女王を皇帝とするインド帝国が成立するのです。
18世紀以降のイギリス支配下で育ったインドの知識層のなかからは、近代合理主義的な思想をもつラーム・モーハン・ローイや、インドに新たな宗教観をもたらしたラーマクリシュナなど、イギリス支配への抵抗を説く者たちが現れます。こうした潮流は19世紀後半になると大規模な民族主義運動、政治運動へと変化していき、その中心となるインド国民会議派が成立しました。国民会議派は1906年の大会でスワラージ(自己の支配・統治の意)などの綱領を定め、イギリス支配と対決。イギリス側は対抗策としてイスラーム教徒のムスリム連盟を組織させ、国民会議派と対立させる構造を作り出します。
第1次世界大戦が勃発すると、イギリスはインドから兵力や物資を調達するため、戦後の自治をエサに民族運動を抑えようとしますが、約束どおりには実行されず、戦後の反英運動激化を招くことになりました。
高まる一方のインドの民族解放運動に対し、イギリスは1919年に「インド統治法」を定め、非常に限定された選挙権をインド人に認める一方、「ローラット法」を施行して運動弾圧を強化しました。インド国民会議派の指導者マハートマ・ガンディーはこれに反発し、非暴力を掲げてゼネストを敢行。1930年には政府の製塩禁止令に対して「塩の行進」と呼ばれる反対運動を主導するなど、同じ国民会議派のジャワーハルラール・ネルーらとともに、全インド的な反英運動を展開しました。
こうした運動の結果、インド人指導者たちは1935年のインド統治法改訂など、イギリス側の譲歩を引き出すことには成功しますが、ムスリム連盟との対立激化や第2次世界大戦の勃発もあり、完全独立はお預けとなります。大戦中、国民会議派はイギリスのインド即時撤退を求める「クイット・インディア運動」を展開し、ガンディー、ネルーらが拘留されるといった混乱を生じましたが、大戦終結後の1947年についにインドは独立を勝ち取ります。このとき、ムスリム連盟が中心となって分離独立した国家がパキスタンです。
1947年にイギリス支配からの独立を勝ち取ったインドは、1950年施行の新憲法のもと、連邦制の共和国となりました。初代首相には国民会議派の指導者ジャワーハルラール・ネルーが就任し、5ヵ年計画による重工業化路線を敷きます。外交面では、米ソの冷戦体制のもと、東西どちらの陣営にも属さない非同盟の立場をとり、これは1954年のネルーと中国・周恩来との会談で示された「平和五原則」にも反映され、またその理念は1961年に第1回目が開催された非同盟諸国会議へと受け継がれました。
1964年のネルーの死後は、シャーストリ政権を経て66年にネルーの娘であるインディラ・ガンディーが首相となり、インドの舵をとりますが、社会主義路線の開発戦略の強化や閉鎖的な経済運営によるインド経済の低迷などで支持を失い、独立以来政権政党の位置にあった国民会議派は、77年の選挙でその立場をジャナター党(人民党)に譲りました。
1943年にベンガル地方を襲った大飢饉など、干ばつによる飢餓や貧困は独立後も常にインドについてまわる社会問題でした。そうした状況を打開するため、1960年代後半からはじまった新農業戦略が効果をあげ、70年代後半にインドは食糧自給を達成します。この技術重視の農業戦略は「緑の革命」と呼ばれ、食糧事情の改善に寄与しましたが、農民の経済格差をいっそう広げるなどの弊害を生みました。
食糧不足の改善とともに、長期に及んだ経済停滞からの脱却の兆しが見えはじめ、インディラ首相時代のような過度の統制が停滞の主因であったとの認識が広まったため、80年代以降、インドでは経済自由化への機運が高まりました。1991年には湾岸戦争などの影響でインドに通貨危機がおこり、これを機に大幅な規制の緩和・撤廃を軸とする「新経済政策」が実施され、インドは経済大国への道を歩み始めます。
1947年の分離独立以後、インドとパキスタンはインド亜大陸北西部のカシュミール地方の領有をめぐる争い(カシミール紛争)をつづけており、現在も完全な解決には至っていません。1971年の第3次印パ戦争では、東パキスタン(当時)の独立のためにインドが介入して武力衝突を生じ、その結果、東パキスタンはバングラデシュとして独立しました。
民族や宗教の対立は、インド国内でもくすぶりつづけています。ひとつはパンジャーブ問題。西北部のパンジャーブ地方に多いスィク教徒(ヒンドゥー教改革派)と中央政府のあいだにおきた紛争です。1980年に首相に復帰したインディラ・ガンディーは、スィク教徒への弾圧が引き金となって84年に暗殺されてしまいます。また彼女のあとを引き継ぎ、89年まで首相を務めた息子のラジーヴ・ガンディーは、在任中に隣国スリランカの地域紛争に介入したことが原因でテロの犠牲となっています。