あなたのインド知識はどのくらい?
インドと聞くと真っ先にカレーやヨガを思い浮かべる方も多いかもしれません。あるいはタージ・マハルやフマーユーン廟などの優美なムガール建築に思いを馳せるかも?
しかし、さまざまな表情をもつインド文化の魅力はそれだけにとどまりません。悠久の歴史が育んだ各種芸術から、最新の結婚事情まで、その魅力の一端をお届けします。
「カレーライス」は、日本の食卓に欠かすことのできない定番料理といえますが、インドでカレーといえば、スパイスをふんだんに使った料理全般を指します。カレー料理に使われる基本的なスパイスには、コリアンダー、クミン、チリパウダー、日本ではウコンの名でも知られるターメリックなどがあり、これらを多用する根底には、インドの古典医学アーユル・ヴェーダに基づく「医食同源」の考え方があるといわれます。
日本のインド料理店でおなじみの、タンドゥーリ釜で焼き上げる「ナン」や「タンドリーチキン」は、小麦を主食とする北インドの代表的な料理。米を主食とする南インドでは、ココナッツミルクやタマリンドなど、北インドとは異なるスパイスを使ったカレーが多くなります。海岸沿いの地方では魚料理もよく食べられています。また、南インドや西部のクジャラート地方には宗教的禁忌に厳格な菜食主義者が多く、豆や野菜を使ったメニューが豊富です。このように、同じカレーでも、地域や宗教などによってさまざまなバリエーションをもっているのが、インド食文化の特徴のひとつといえるでしょう。
菜食主義者でなくても、インドに最も多いヒンドゥー教徒は、シヴァ神の乗り物でもある牛を神聖視しており、その肉を口にしませんし、ついで多いイスラーム教徒は豚肉を食べません。しかし最近では、こうした禁忌にとらわれず、西洋風の食生活を送る人々も増えているようです。
インドの伝統的な衣装としては、おもにヒンドゥーの女性が身に着けるサリーが有名です。サリーの正体は幅1.2メートル、長さ5〜11メートルの1枚布。これを巧みにまとい美しいシルエットをつくりあげますが、その方式は地方によってさまざまです。素材は木綿、絹、化繊など。サリーの下にはチョーリーという短めのブラウスをつけます。一方、ヒンドゥー男性の伝統衣装はドーティと呼ぶ腰衣で、こちらも1枚の長い布で下半身を覆い、クルターという膝上丈の上衣を合わせます。
若者のあいだでは洋装も一般的になってきましたが、日本の着物に比べると、インドの伝統衣装ははるかに日常的に用いられています。これはインド独立運動の際、国家への帰属意識の高揚に伝統衣装が大きな役割を果たしたことと無縁ではないようです。
ヒンドゥー教徒の通過儀礼はサンスクリット語で「サンスカーラ」と呼ばれます。人生の節目節目にとり行うさまざまな儀式・儀礼を指します。日本にも七五三や入学・卒業式、成人式など各種の通過儀礼がありますが、ヒンドゥー社会の通過儀礼はもっと宗教色を色濃く残しており、「浄と不浄」というヒンドゥーの基本思想に照らせば、これらは不浄を避け、浄を保つ意味をもつといえます。
サンスカーラには、受胎時から死後までたくさんのものがありますが、なかでも重要視されるのは出産、男子の入門式(聖紐式とも;第二の誕生ともいわれ、上位3カーストのみが行う)、結婚、そして死の儀式です。入門式は元来、ヴェーダ(聖典)の学習を始め、正式なヒンドゥー教徒となるための大切な儀式でしたが、現在の教育制度のもとでは形式化しています。葬儀は人生最大の儀式とされ、多額の費用をかけてとり行われます。ヒンドゥー教では、火葬が一般的です。
インドでは、日本でも一般的な太陽暦(グレゴリウス暦)とともに、お祭りや農作業期のめやすとして、公的に採用されているシャカ暦、ヒンドゥー暦(ヴィクラム暦)、イスラーム暦(ヒジュラ暦)など各種の太陰暦が併用されます。インドの国民の祝日は、共和国記念日(1月26日)、独立記念日(8月15日)、マハートマ・ガンディー生誕記念日(10月2日)の3日だけですが、各宗教や地域ごとに、独自の祝祭日が定められています。
季節の節目を祝うお祭りとしては、ホーリー祭とディーワーリー祭が代表的です。ホーリーは神話に起源をもち、ヒンドゥー暦のパールグナ(2〜3月)の満月の夜から翌日にかけて行われる春の祭り。ホーリーはいわゆる「無礼講」のお祭りで、この日ばかりはカーストや性別にかかわりなく色つきの粉や水をかけ合い、大騒ぎして過ごします。
ディーワーリーはヒンドゥー暦のカールッティカ(10〜11月)の新月の日に、灯火を点して富の女神ラクシュミーを家へと招き入れる秋の祭り。家々では大掃除や壁の塗り替えなどを行ってディーワーリーを迎えます。現代では灯火に加えて電球やネオンなども飾られるようになって派手さを増しており、国をあげての新年祭の様相を呈してきています。
結婚が本人たちだけものではなく、家のものであるという認識が一般的なインドでは、日本のように自由な恋愛や結婚はなかなか望めないのが現状です。最近では、都市部の若者を中心に恋愛結婚が増える傾向にありますが、多くの場合、結婚相手探しは親の仕事であり、子供は基本的にその意向を受け入れます。現在では「お見合い婚」が多数派ですが、かつては結婚の当日初めて相手に会うのもめずらしくなかったようです。
お見合い相手探しにおいて、本人同士の相性と並んで重視されるのが、カーストに基づくファミリー間の釣り合いです。法的には、カーストによる制限は撤廃されているものの、こうした風潮は根強く残っています。この狭き門のために、相手探しに苦労するケースが往々にして見られ、条件の合う相手を求めて新聞広告をうつことも普通に行われていました。近ごろは、インターネット上のお見合い相手紹介サービスがたいへんな人気を博しています。
インドでも結婚は人生における重要な通過儀礼とされ、婚儀は盛大に催されるのが一般的です。またインドには、結婚に際して花嫁が嫁ぎ先に財産を持参するダウリーという習慣が根づいています。その額の大きさからさまざまな問題を引き起こしたため、1961年に禁止法が制定されましたが効果はあがらず、現在もダウリーの額は増加傾向にあるといいます。
日本ではカーストというとインド古来の4つの種姓(バラモン、クシャトリヤ、ヴァイシャ、シュードラ)による身分制度と理解されることが多いですが、インドの人々はこれらをヴァルナと呼び習わし、より小さな社会集団を「生まれを同じくする」という意味のジャーティという語で呼んでいます。ヴァルナが社会の大枠を示すのに対し、ジャーティはもっと日常生活に密着した集団であり、インド全体で2,000〜3,000にも及ぶといわれるジャーティ単位で結婚、食事、職業などに関する規制(の習慣)が存在します。
また、4ヴァルナの外に置かれ、かつては不可触民と呼ばれた被差別階級もカーストの一部といえます(今日では指定カーストと呼ばれる)。不可触民制度は憲法で廃止を明言しているにもかかわらず、いまも偏見や差別が強く残り、本来カーストをもたないインドのキリスト教徒、イスラーム教徒のあいだにも指定カーストに相当するグループが存在するなど、カーストの根強さを物語ります。
浄と不浄はヒンドゥー教の基盤のひとつをなす観念ですが、カースト制度に直結しているため、きわめて社会的な性質をもっています。世代を超えて引き継がれた浄と不浄の観念が階級として固定化したものこそ、インドにおけるカーストだといってもよいでしょう。
インドでは不浄(穢れ)は強い伝染力もっているとされ、その原因に触れるだけでなく、同じ空間に存在することによっても伝わるとする考え方もあります。レストランで同席が許されなかったり、駅のキップ売り場がわけられていたりするのは、その例といえます。こうした一見差別的なシステムの多くは、浄と不浄の観念に基づいたものです。
よく知られたことですが、ヒンドゥー社会では左手を不浄の手として、食事には必ず右手を用います。これは排便後、左手を使って水で洗う習慣があるためです。人に何かを手渡しするときや、握手するときは右手を使うべきでしょう。
インドのおよそ8割の人々が信仰し、インド文化の根幹をなすヒンドゥー教は、ひとりの開祖によって創始された宗教ではなく、太古のインド亜大陸に移り住んだアーリヤ人の神々への信仰(バラモン教)が長い年月をかけて土着し誕生した、いわばインドの地に自然に発生した宗教です。神々をはじめ、ヒンドゥー教の起源の多くはバラモン教にあり、広義にヒンドゥー教という言葉を用いる場合は、バラモン教を内包していると考えるのが一般的です。
4世紀頃までに叙事詩『マハーバーラタ』とその一部をなす『バガヴァット・ギーター』、『ラーマーヤナ』、そしてヒンドゥー法典の基盤となる『マヌ法典』など、ヒンドゥー教の中核となる聖典群が成立し、以後も13世紀以降のイスラームの浸透など、さまざまな影響を受けつつ形をかえながら今日に至っています。
ちなみに「ヒンドゥー(Hindu)」の原義はペルシア語の「インダス川流域の人々」で、転じてインド人を指す言葉となり、さらにそれがヨーロッパ語圏でヒンドゥーの宗教・文化を指す「ヒンドゥイズム(Hinduism)」=ヒンドゥー教と変化した経緯があります。ヒンドゥーは宗教というよりも、インドの人々の生き方そのものといったほうがいいのかもしれません。
日本人にとっては、インドは仏教発祥の地としてもなじみ深いですが、意外にも現在のインド国内の仏教徒は人口の1%にも満たない少数派です。紀元前4世紀頃、ゴータマ・シッダールタ(釈迦)によって開かれた仏教は、紀元前3世紀頃のマウリヤ朝アショーカ王の時代に、王の保護を受けて国家的な宗教として急速にひろがりますが、一般民衆に対する基盤づくりをおろそかにしたため、民衆と強く結びついたヒンドゥー教の台頭とともにパトロンたちを失っていきます。
11世紀から12世紀にかけ、ムスリム勢力がインドに侵入するようになると、民衆に基盤をもたず、抵抗力に乏しい仏教寺院は略奪の格好のターゲットとなり、13世紀初頭には、インドからほとんど姿を消してしまいます。こうした経緯はありましたが、アショーカ王の頃から数百年にわたって勢力を維持できたのは仏教が民衆の心をとらえたからであり、インド国内の支持基盤を失った後、新たなパトロンを求め東へと伝播していったことで、日本に仏教がもたらされることになったともいえるでしょう。
近年インドでは、差別的な不可触民制の撤廃を求めたヒンドゥー教徒たちによる仏教への改宗運動(ネオ・ブッディスト運動)がおこり、仏教徒は1990年代に750万人にまで増えたとの報告があります。
巡礼は、それぞれの宗派の神や開祖などにゆかりの地を参詣し、信仰を深めるための行為です。多種多様の宗教が混在するインドでは、宗教や宗派によりその対象と方法こそ異なりますが、穢れを払い、現世的なご利益を願うことという目的はほぼ共通しています。
インドで生まれたヒンドゥー教、仏教を信奉する人たちは、多数の聖地を巡る環状巡礼を基本とし、ヒンドゥーの四大神殿、七聖都巡りや、仏教徒の四大聖地巡りなどが知られます。これに対し、イスラーム教徒はメッカ、スィク教徒は北西インドのアムリトサルを訪れて帰る、往復巡礼を主としています。
4つの系統に属する多数の言語が混在するインドでは、さまざまな言語による多様な文学作品が生み出されてきました。北インドにおいては、古くは紀元前1500年頃から始まるバラモンの古代文学(ヴェーダ文学)、紀元前4世紀頃から13世紀にかけて興隆したサンスクリット文学、14世紀頃からはヒンディー語などの近代諸語による作品がつくられています。南インドでは、タミル文学が紀元前後から独自の叙事詩をもっていたことが知られています。
インド文学において、文化への貢献という点でとくに重要なのものとして、最古の文献といわれるバラモンの聖典『リグ・ヴェーダ』、インドの国民的二大叙事詩『マハーバーラタ』『ラーマーヤナ』、マハーバーラタの一部をなす宗教哲学詩『バガヴァッド・ギーター』、古典サンスクリット文学の傑作といわれる戯曲『シャクンタラー』などがあげられます。また、古代インドの政治論として名高い『アルタ・シャーストラ』は、当時の文化、社会を知る上での貴重な資料ともなっています。
近代文学における功労者のひとりが、自ら英訳して出版した詩集『ギーターンジャリ』(原書はベンガル語)で1913年ノーベル文学賞を受賞したラビンドラナート・タゴールです。彼はまたインド独立運動の精神的な支柱となった思想家でもあり、インド国歌の作詞・作曲も担当しました。
インドの古典的な美術品としては、インダス文明遺跡からの出土品や、仏教を奉じたマウリヤ朝第3代のアショーカ王の時代から盛んになった仏教美術、同じく仏教関連ながら、ギリシア彫刻の影響を受け、仏像制作の嚆矢となったガンダーラ美術、また仏教美術の衰退後に栄えたヒンドゥー美術、13世紀以降のイスラーム系王朝時代に花開いたムガール美術など、時代ごとの文化を反映したものが多数伝えられています。
紀元前3世紀頃、全インドの大部分を支配下におさめたアショーカ王は、ブッダの教えであるダルマ(法)を刻んだ記念石柱を支配下の地域に建てたと伝えられており、サールナートで出土した、獅子をかたどった柱頭はインドの国章のモデルとなっています。
インドの古典音楽は、北インドと南インドでそれぞれ異なる発展をとげました。北インドの音楽はヒンドゥスターニー音楽と呼ばれ、13世紀頃からのムスリム王権下において、ペルシアなど西アジアの音楽の影響を強く受けており、一方の南インドの古典音楽カルナータカ音楽は、南部のヒンドゥー王朝のもとで独自に発達したためです。北と南では演奏に使われる楽器も異なり、ヒョウタンを胴部に使った弦楽器シタールや2つ一組で用いる一面太鼓のタブラーは、北インドでおもに使われる楽器です。
またインドの古典音楽は本来、歌と踊りと楽器演奏が一体となった音楽舞踏劇でした。踊り手がひとりで何役も演じ分ける南インドのバラタ・ナーティヤムは、ヒンドゥー教の寺院に所属する巫女たちによって伝承されてきた、南インドを代表する古典舞踏です。
各地の下町の路上を舞台に活躍する辻音楽師たちも、インド音楽を語る上では欠かせない存在です。ベンガル地方の大道芸人バウルは独自の宗教哲学を有し、ベンガル生まれの詩人タゴールによりその詩的表現法や音楽的価値を再評価されたことで、世界的に知られるようになりました。
近現代の音楽家としては、インド音楽を世界に広めたシタール奏者ラヴィ・シャンカルがよく知られています。また、最近のヒット曲は、インドの映画人気を反映して、映画音楽から生まれることが多くなっています。
インドにおける大衆娯楽の王様は、映画をおいてほかにありません。年間の製作本数や観客動員数は、映画の都ハリウッドをはるかにしのぎ、銀幕のスターはまさに国民的英雄の様相を呈します。音楽と舞踏を重要な要素とする伝統芸能のスタイルを踏襲するかたちで出発したインドの娯楽映画の多くは、歌と踊りをまじえたミュージカル形式をとっています。劇中の歌を専門の歌手が吹き替えするのもインド映画の特徴です。この歌手はプレイバックシンガーと呼ばれ、俳優顔負けの人気をほこるプレイバックシンガーもたくさんいます。
多数の言語が混在する環境は、1930年頃のトーキー化以降、言語別の映画製作という特殊な状況も生み、インド各地での映画製作がますます盛んになりました。なかでもインド映画産業の中心となったのがムンバイー(旧ボンベイ)で、ムンバイーのヒンディー語映画は、ハリウッドを捩って「ボリウッド」と呼ばれます。南インドのチェンナイ(旧マドラス)はタミル語映画製作の中心地。近年日本でも、インド随一の人気俳優ラジニカーント主演の映画が話題を集め、インド娯楽映画ファンが急増したのは記憶に新しいところです。
インドをはじめ、かつてイギリスが足跡を残した南アジアの国々には、イギリス生まれのスポーツが根づいています。なかでも人気はクリケット。オーヴァルと呼ばれる広いフィールド上で1チーム11人の選手たちが守備と攻撃にわかれ、得点を競い合うスポーツで、原型ではないかとの説もあるほど、野球と共通点の多い球技です。また、クリケットはサッカーについで世界の競技人口が多いスポーツともいわれますが、これはインドでの熱狂的なクリケット人気によるところが大きいと考えられます。
インドの国技カバディは単純なルールながら奥の深いスポーツ。攻撃中は「カバディカバディ…」と連呼する(キャントという)ルールがユニークです。なんの道具も必要としないため、南アジアを中心に人気が高く、アジア競技大会の正式種目となっています。
スポーツといえるかは微妙ですが、日本でも遊具としておなじみのブランコはインドの儀式に起源をもつといわれます。インドでは婦人たちがブランコに興じることで聖婚が果たされるとされ、春の祭りホーリーの際などでも設えられます。また最近では、富裕層を中心にゴルフが盛んで世界的な大会も毎年開催されています。